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『ボーはおそれている』人生は悪夢のように長く短い旅。不条理は無理にでも笑い飛ばせ!

◆今週公開の注目作

『ボーはおそれている』

文:屋我平一朗(日々メタルで精神統一を図る映画ブロガー)

反出生主義という思想がある。「人間は生まれて来ない方が良い」ないしは「子どもは生まない方が良い」とする考え方だ。生きていると時たま幸せに巡り合うが、人生は不幸にも溢れている。タンスの角に足の小指をぶつければ痛いし、風邪を引けば咳や熱で苦しい。ある日友人だと思っていた人からひどい裏切りに遭うかも知れないし、明日身近な人が亡くなるかも知れない。そんな思いをするくらいなら、はじめから生まれて来なかった方が良かったというのだ。反出生主義者であるデビッド・ベネターによれば、生まれるとその人が苦痛を味わうのであれば生まれない方が良く、生まれて快楽を味わえるとしてもやはり生まれない方が良いとのことだ。苦痛があるのはマイナスだが、快楽がないのはマイナスではなくプラマイゼロなのだ。点数をつけるとすれば、生まれた場合は快楽(+1)と苦痛(-1)で0、生まれない場合は苦痛なし(+1)と快楽なし(0)で+1点になるだろう。なるほど、一理あるような気はする。

実際、毎日何かしらの苦痛を感じながら生きている人は多いのではないだろうか。映画人でそのような人物と言えば、まず思い出すのが『ダンサー・イン・ザ・ダーク』など鬱映画で有名なラース・フォン・トリアー。彼は映画監督としては致命的な飛行機恐怖症であり、「映画作り以外の全てが怖い」とすら発言している。そして、もうひとり挙げられるのは傑作ホラー『ヘレディタリー/継承』『ミッドサマー』に続き、ホラー風味のブラックコメディである本作『ボーはおそれている』を完成させたアリ・アスター監督だ。ホラー映画が好きなのはどういう人か。逆説的にも聞こえるが、それは恐らく怖がりな人のはずだ。甘さを感じない人がいるとして、その人がスイーツ好きになるとは考えにくいだろう。そして、怖い映画を撮れる人物もまた、きっと極度の怖がりなのだ。

 

『ヘレディタリー/継承』は特に、その傾向が強かったように思う。同作を見る観客は、様々な角度の恐怖に苛まれる。親の精神疾患が遺伝するのではないか、自動車事故が起きるのではないか、幽霊に襲われるのではないか、カルトな集団に目をつけられるのではないか…などだ。その手数が多いので、例えばオカルトホラーが平気な方でもサイコホラー的な側面に戦慄されられるのだ。『ボーはおそれている』でも、タイトル通り主人公ボーは常に不安を感じている。離れて暮らす母に言われ、すでに亡くなっている父の命日に実家に帰ろうとしたところ、鍵と荷物を何者かに盗まれ飛行機に乗り遅れ、その内に何と母親が死んでしまう(普遍的な恐怖だ!)。アスター同様ユダヤ人であるボーは教えを守るべく一刻も早く帰省しようとするが、次々に不条理な出来事が重なり、それは図らずも“冒険”と化してしまう。

本作には元になった『Beau(原題)』(2011)という短編がある。やはり主人公のボーが母に会いに行くため家を出ようとした時忘れ物に気づき、取りに戻っている最中にドアに挿したままにしていた鍵と荷物が盗まれ…といった内容だ。なぜか隣人に会う度に罵倒され、謎の怪物にさえ襲われる。規模的には短編がアパートレベルの話だったのに対し、『ボーはおそれている』の方ではボーの世界に対する不信感がより膨れ上がっており、住んでいる町は犯罪と暴力に支配されている。予告で言われている“オデッセイ・スリラー”の「オデッセイ」とはギリシャの叙事詩『オデュッセイア』が描くような長きにわたる多難な故郷への旅のことであり、アスター作品ではよく主人公と母親の関係がクロースアップされる。これまたギリシャのオイディプス王のようだ。

本作にはアニメーションパートもあり、昨年ストップモーションアニメ映画『オオカミの家』で、そのあまりの異形さで多くの観客にトラウマを植え付けたチリ出身の監督コンビ、ホアキン・コシーニャ&クリストバル・レオンも参加している。約3時間も悪夢的な内容が続き、ボー役を熱演しているホアキン・フェニックスがたまらなく可哀想に見えてくるのだが、これでアスターは観客に何を伝えたかったのだろうか。ユダヤ人の2000年の歴史? それとも人生なんて悪趣味な冗談の連続だということ? あなたはこの長旅の果てに、自らの人生を肯定できるのか…。暗い歴史を持つユダヤ人には、コメディアンが多い。絶望には笑いしか対処法がないのだ。例えあなたが反出生主義者であっても、本作があなたにとって快楽であっても苦痛であっても、生きていることを実感できるだろう。受け入れるしかない。幸か不幸か、すでに生まれてしまったのだから。

【ストーリー】
日常のささいなことでも不安になる怖がりの男ボーはある日、さっきまで電話で話してた母が突然、怪死したことを知る。母のもとへ駆けつけようとアパートの玄関を出ると、そこはもう“いつもの日常”ではなかった。これは現実か? それとも妄想、悪夢なのか? 次々に奇妙で予想外の出来事が起こる里帰りの道のりは、いつしかボーと世界を徹底的にのみこむ壮大な物語へと変貌していく。

【キャスト】
ホアキン・フェニックス、スティーヴン・マッキンリー・ヘンダーソン、エイミー・ライアン、ネイサン・レイン、パティ・ルポーン、パーカー・ポージー、ドゥニ・メノーシェ 他

【スタッフ】
監督・脚本:アリ・アスター

公式サイト:https://happinet-phantom.com/beau/

 

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